2013年4月1日月曜日

町会の組織と役割

町会長   副会長   理事    監事   事務局


事務・管理部門

○総務部
 総務事務/事務局管理/総会議案書・議事録/会員データ管理/掲示板管理
○経理部
 町会経理/出納事務/町会費取り扱い/予算案・決算書
○会館管理部
 会館利用管理/会館施設管理/鍵管理



広報部門


○文化部
 西片だより/講演会・見学会・座談会/西片資料整理
○ホームページ部
 ホームページ作成・更新/各部情報の収集



地域部門

○防災部
 消防署等と連携/防災対策・災害時活動/防災備品管理(会館内・防災倉庫)
○防犯部
 防災パトロール/歳末夜警/警察等と連携/防犯カメラ管理
○環境部
 区建築課・道路課と連携/工事対応/町内の交通/ゴミ・集団回収
○地域活動部
 学校・向丘青少年健全育成会/青少年のイベント/町内外行事/町内交流促進/講習会



















町会行事

【  1月】 新年会

【  2月】 新春もちつき会

【  4月】 西片さくらまつり

【  5月】 西片町会定時総会

【  6月】 文京あじさいまつり(白山神社)・町会費納入お願い

【  7月】 誠ラジオ体操会・西片祭実行委員会

【  9月】 西片祭り・西片子ども祭り

【11月】 向丘連合まつり(12町会)

【12月】 歳末夜警

西片の地区割りと担当理事




地区別担当理事
1区 一丁目1、3、4
梅村、渡邉
2区 一丁目5、6、7、8,9,10,11
阿部(正)、金子、武田、占部
3区 一丁目12,13,14,15(一部)
朝西、桑嶋
4区 二丁目1,2,3,10,20,21(一部)、22(一部)
太田、塚越
5区 二丁目4,8,9
佐々木、戸塚、針谷
6区 二丁目5.6.7
中澤、長谷美
7区 二丁目11,12,18,19
伊東、岩倉、浪波、古田、後藤
8区 二丁目13,14,15,16,17
阿部(秀)、片貝、西脇、山田、両角



西片町会地区 防犯カメラ運営基準

1 目的              
  この運営基準は、西片町会に設置される防犯カメラについて、犯罪の予防及び抑止を図る
 とともに、その運営にあたり防犯カメラの撮影対象となる者のプライバシーの保護を図るた
 め、設置及び運営について定める。  
   
2 設置者及び管理責任者等  
2-1. 防犯カメラの設置者は、地縁法人西片町会とする。  
2-2. 管理責任者は西片町会会長とし、個人情報の保護に十分配慮して防犯カメラの適正な管理、
  運営を行うことを義務とする。  
2-3. 管理取扱者は町会防災部部長とし、管理責任者を補佐して防犯カメラの適正な管理、運営
  を行うことを責務とする。  
   
3 防犯カメラの仕様  
3-1. 設置する防犯カメラは、カメラに記録媒体を備えたカメラと記録装置が一体型の機器と
  する。  
3-2. 映像監視用のモニターはプライバシー保護のため設置しない。  
   
4 映像又は音声の記録(以下「記録」という。)の保管と廃棄  
4-1. 防犯カメラから取得した記録の保管期間は1週間とする。  
4-2. 記録の編集又は加工は行わない。  
4-3. 保管期間を経過した記録については、映像を復元することができないよう媒体の破砕又は
  映像データの上書き処理により廃棄する。  
   
5 記録の閲覧及び外部提供  
5-1. 記録を外部に提供し、又は閲覧させることができるのは、以下の場合に限定する。
イ) 捜査機関から犯罪捜査の目的で公文書による照会を受けもしくは裁判所の命令を受けた時。
ロ) 個人の生命、身体、健康、財産に対する危険を避けるため、緊急かつ止むを得ないと管理
  責任者が認めた場合。  
5-2. 記録媒体の取り出しは管理責任者又は管理取扱者が行い、必要に応じて捜査機関を立ち
  会わせることができる。  
5-3. 記録媒体は上記5-1に基づき捜査機関に持ち込み、もしくは裁判所に提出するものとし、
  これを閲覧に供する場合は管理責任者又は管理取扱者が立ち会うものとする。
   
6 書面による記録  
6-1. 防犯カメラの設置、運営及び管理に関する苦情を受けた時は、管理責任者が速やかに対応
  し、苦情のあった日、苦情申し出者及び苦情内容を書面により記録する。  
6-2. 管理責任者は、記録を外部に提供した場合は、提供日、申請者、提供内容等を書面により
  記録する。  
   
7 設置場所及び設置の周知方法  
7-1. 防犯カメラは西片町会地区の区域内に別図の通り8台設置する。  
7-2. 町会掲示板に、防犯カメラを設置している旨及び設置者・問合せ先を掲示する。
7-3. 防犯カメラの撮影対象区域及びその近隣に居住する住民に対し、西片町会を通じて配布す
  る文書、掲示等により防犯カメラ設置について周知する。  
   
8 運営基準の改廃  
8-1. 本運営基準の変更又は廃止は、理事会の決議を経なければならない。  
8-2. 本運営基準に定めのない事項については、理事会において協議し決定する。
                 

西片の歴史


1、西片のあけぼの
本郷台地の支脈である丸山台は標高約20メートルの舌状台地で、西片はその丸山台の台地上一帯に位置しています。先史時代の丸山台は北から南に海に突き出た半島で、台地の足元にまで浅い海が来ていたと考えられます。
 西片の地には旧石器時代人のわずかな痕跡があります。駒込西片町遺跡(西片216)では関東ローム層内から旧石器時代の黒曜石製ナイフ形石器が1点ですが出土しています。獲物を追って原生林の中をここまで来たのかもしれません。
 縄文時代に入ると丸山台での人々の定住も進んだようです。現在の誠之舎庭の南端部にある築山の背後から貝殻層が発見され、人類学者鳥居龍蔵博士等の調査により貝塚と認定されました。この貝塚の周囲や西片子ども広場砂場付近(当時の半島部南端にあたる)からも貝殻層が見つかり、さらに誠之小学校でも貝塚、駒込西片町遺跡からは縄文前期の土器破片などが発見されています。西片のある丸山台一帯は、小高い台地に豊かな森や雑木林が茂り、目の前には魚貝が豊富な海の広がる、縄文人にとって暮らしやすい場所だったのでしょう。縄文時代の末ごろには海水も後退し、谷には沖積平野ができたと考えられますが、西片の記録に再び人々の姿が登場するのは江戸時代に入ってからです。

2、福山藩阿部家の武家屋敷時代
 阿部家は徳川家康の家臣に由来する譜代大名で、阿部家5代正邦は宝永7年(1710)備後(今の広島県東部)福山藩主となります。その後、代々の当主のうち6名が老中職に就いています。なかでも幕末に、ペリーとの間で日米和親条約(1854)を結んだ老中首座、阿部正弘は教科書にも登場する著名な政治家でした。
さて、江戸初期のことです。慶長15年(1610)、阿部家2代目正次は徳川2代将軍秀忠より、本郷丸山に10万余坪の土地を拝領しました。阿部家文書の一つ『粟田私記秘録』には「殿様御馬にて此辺御乗廻し、家従馬蹄の跡へ縄張を致し夫だけ御拝領の由承り候」とその時の様子が書かれています。その範囲は、北は現在の白山上辺りで、火の見櫓がおかれて中仙(山)道を見張り、南はほぼ菊坂下まででした。その頃の丸山辺りは奥州街道がただ一本通っているだけの、人家もないさびしいところであったようです。その後一部を幕府に返上し6万坪余になりますが、この福山藩阿部家の江戸丸山屋敷の土地が明治時代に入って西片町のもととなります。 
 元禄10年(1697)、5代正邦の時に邸内の北部13,000坪を幕府に上地(返上)します。返上した範囲は幕府医師らの拝領屋敷となって丸山新町と称しました。さらに享保10年(1725)、6代正福の時には邸内の西側を幕府に返上し、ここは明治5年に丸山福山町となります。
 最初に丸山の地を拝領したときの表門は中山道に向いていました。元禄の上地以降の表門は石坂を下りきった場所に設けられ、裏門は阿部通りが中山道へ出る口にありました。この表・裏門の位置は以後の江戸期を通して変わりませんでしたが、阿部家が一時引き上げていた福山から再び丸山に戻った明治初期のみ、表門は江戸時代に裏門だった中山道の入り口に設けられています。

 宝永7年(1710)、阿部家5代正邦は備後福山藩主となりました。9代正精は文政元年(1818)に、江戸丸山屋敷内に藩校(福山藩文武教習所)を創立します。また藩校の隣に天文測量場も創立して家臣に天文測量の研究をさせ、その管理を任せられたのは、幕府天文方渋川家で暦学の研究をした石坂常賢でした。常賢は同年に「分度星図」を完成させ、後に幕府の天文方に採用されています。天文測量場は正精没後、文政9年(1827)に廃止されました。
 11代正弘は文政2年(1819)江戸城西丸下の屋敷で誕生し、文政9年(18268歳の時に本郷丸山屋敷に移って、付き人や遊び相手の童児と暮らし始めました。天保4年(183315歳で元服すると侍女の手を離れ、丸山邸内の独立した家屋(西片213)に移り住んで天保7年に家督を継ぐまで側近家臣と起居を共にし、文武に励みます。正弘は25歳で老中に就任し、以後39歳で亡くなるまで幕末のもっとも困難な時期の国政を担当しました。藩主としての正弘は安政元年(1854)、邸内にあった藩校をもとに江戸丸山誠之館を開講、家臣の子弟は8歳になると入学して文武両道の修練に励みました。翌年、国元にも福山誠之館を開講させています。
 安政2年(1855)、安政の江戸大地震が発生、丸山屋敷は地盤が固いため総じて安泰で、家屋の倒壊はわずかでした。一方、辰の口の福山藩上屋敷はかなり倒壊したため、正弘は倒れた家具の下敷きになった正室と共に丸山屋敷にしばらく仮住まいし、江戸城に登城する際には馬で通ったということです。
 幕末に黒船が来航して以来、丸山邸内の稲荷山の崖(現在の清水橋の南あたりの崖)でも大砲が鋳造され、安政4年(18574月には大小砲の空発など誠之館を本陣とした甲冑訓練も行われました。正弘は調練に臨んだ後の6月に病死し、政局に大きな動揺を与えました。

3.「西片町」の誕生と阿部家の町づくり
明治元年(18687月に江戸は東京と改められました。阿部家はその年10月には箱館戦争に出兵、明治2年版籍奉還により阿部家14代当主正桓(まさたけ)は福山藩知事になり家臣と共に福山に引き上げました。同3年には北海道の開拓にも携わり1年間苦心しました。
明治4年に廃藩置県が行われ、正桓は家族・旧臣ともども福山から海路上京し、本郷丸山の地に本拠地を構えることにします。一行が上京した当初は、江戸時代に中屋敷だった丸山屋敷(西片)は大木が切り倒され、家屋も荒れ果てていてすぐには住めない状態だったため、しばらく向島の屋敷に仮住まいした後、丸山を本邸としました。

明治5年(1872)、「西片町」の町名が誕生します。阿部家の差配人・篠田政兵衛が、中山道を挟んで向かい側に当たる駒込片町の人たちと話し合いをして、道の東側にあたる旧来の片町を東片町、西側の旧武家地を西片町としたそうです。
 阿部家では福山から上京して間もなく邸内の大部分に桑や茶を植え、養蚕室も建てるなど養蚕や製茶を本格的に開始、西片2812辺りは当時桑畑の中心で、中央を通る道は「桑の小路通り」とよばれました。明治5年には貸地貸家経営も始め、道路や井戸の整備をしました。明治20年までには現在西片を通る主要な道路のほとんどが開通し、清水橋(から橋)も架けられています。当時邸内の井戸は100か所前後あったようです。

西片町には番地もつけられていましたが、西片町10番地はすべて阿部家の邸内で町の大部分を占め、邸内には福山藩関係者が大勢住んでいました。明治17年(1884)には正桓氏に伯爵号が授けられています。明治21年(1888)、邸内の住宅301戸に、「い」から「と」までの「いろは(以呂波)」番号をつけ、各戸に木札を配布しました。中山道沿いの家は122番の表組としました。西片町10番地は非常に広く、家を探すのも大変で、現在の学校通りと阿部通りの交差する十字路角にあった交番や近隣の交番には、道を尋ねてくる人が大変に多かったそうです。
明治24年には阿部伯爵家の本邸が新築され、門前にできた広場は皆に「大椎の木の広場」と呼ばれ(現在の西片公園の場所)、西片町の人々の集う場となりました。明治36年ごろまでには街灯、水道鉄管、ガス管なども敷設され、明治末から大正にかけては洋館のある和洋折衷住宅も建てられるなど、新しい技術を積極的に取り入れて、阿部家の手により着々と西片町の町づくりが進められていきます。
 阿部家は町内を整備すると同時に教育にも力を注ぎました。丸山屋敷内には江戸時代から藩士子弟の教育のために藩校誠之館が設けられていましたが、明治8年、それを母体として阿部家が土地・資金などを支援し、現在の誠之小学校の前身となる第一大学区第4中学区第十三番公立小学誠之学校が開校しました。同20年には後に第一幼稚園となる幼稚室も小学校内に開設され、同30年に現在地に移転しています。また同23年に養蚕室を利用した誠之舎が竣工し、福山から東京に出てきて勉強する学生たちのための寮となりました。これらの教育施設からは新しい日本で活躍する多くの人々が輩出しています。
 西片町は東京帝国大学などに近かったこともあって多くの学者・文人が住み、明治末期頃には“学者町”と呼ばれるようになりました。

 《この項に関しては、阿部家資料に基づいて書かれた以下の論稿をクリックしてぜひお読みください》
 
4.旧西片町会の創設から解散まで
 明治末期から大正・昭和初期にかけて、西片町には「阿部さま」を中心とした閑静な屋敷町が形成されていきました。そこは武蔵野の自然も残り、家々の庭も整えられた緑豊かな町でした。阿部邸内で園遊会や運動会も催され、子どもたちは初午の祭日に招かれたり、邸内の外庭や「大椎の木の広場」で遊んだりするなど、町の人々は阿部家に敬意と親しみを抱きつつ、西片町の住人であることに誇りをもって暮らしていました。
大正129月、関東大震災が起きました。安政大地震時と同様に西片町の被害は少なく、近隣から大勢の被災者が避難してきて、阿部家本邸の一部や大椎の木の広場(現在の西片公園)にひとまず落ち着きました。西片町の人々は協力して救援活動をしましたが、この活動がきっかけとなり、大震災まもない不安な状況の中で、旧西片町会が創設されました。

 昭和5年阿部家15代正直伯爵は、以前から子どもたちの遊び場だった大椎の木の広場を児童遊園地として整備します。西片町や近隣の町の子どもたちは「阿部(さま)公園」とよんで、大切に遊んでいました。公園の東端には町内を守る夜警の詰所もありました。
 やがて戦争が始まり、戦局の進展に伴って町内の出征者も増え、戦時中に一時「東京市誠之国民学校」と改称した誠之小の講堂では、出陣学徒壮行会も開かれました。町内の家々では防空壕を掘り、隣組組織、防空防火体制も強まって、戦争末期には誠之小の学童疎開も始まります。大戦中、町会役員はじめ町の人の中には、戦災から西片町を守ろうと、疎開もしないで日夜努力した人たちもいました。昭和19年、阿部家は東京空襲に備えて公園南側を国に寄付、その場所に本郷消防署が設置され、西端には火の見櫓も置かれました。

昭和20年終戦、幸いにも西片町は空襲の被害を受けませんでした。昭和22年には連合軍総司令部により全国の町会が解散させられ、旧西片町会もこのとき解散しました。しかし町の人々は6月には西片会館建設委員会を設立し再起を期します。阿部邸洋館はじめ進駐軍に接収された家も多く、公園にはメイドさんに連れられた米軍人の赤ちゃんをよく見かけたそうです。このような状況の中、町の人々の絆は強く、終戦の翌年には青年たちを中心としたサッカーチーム(西片町クラブ)や西片町合唱団が表向きに活躍し、年配組は表立たないよう以前どおり町内の世話をしながら、西片町会が再出発できる日を待ちました。

5.西片町会の再発足そして「西片」へ
 空襲を免れたとはいえ、さすがに終戦直後の西片町は荒廃したままでしたが、焦土と化した各地から転入してきた人や、戦地や疎開から戻った人々で、町の人口は飛躍的に増加しました。やがて禁令の解除により昭和28年には西片町会が再発足し、「西片だより」が創刊されます。町内掲示板や回覧板制度も始まりました。道路や下水道の復旧工事も進み、町の復興が軌道に乗っていきます。

昭和30年には阿部邸の外庭も一般に宅地分譲され、新しく町に住む人々も増えました。阿部邸内には私立阿部幼稚園が開園(後に区立西片幼稚園を経て、現在子育てひろば西片)、その頃は園庭から富士山が望めました。明治・大正・昭和と皆に親しまれてきた公園の大椎の木は衰弱したため伐採され、今は西片公園にたつ記念碑の写真の中に、その雄大な姿をとどめています。

 昭和398月には地番変更により「いろは」番号が廃止され、西片町は隣接地区を合併して「西片1丁目、西片2丁目」となります。町名変更も検討されていましたが、当時の山根静人会長らの大変な尽力により、「西片」の名は残りました。公園には昭和63年に桜の若木が移植され、区立「西片公園」となって25年経った今、西片さくらまつりの立派な主役に成長しています。

6.平成の西片
 昭和後期から平成にかけて相続のために手放されて分譲された土地も多く、町内にはマンションや一戸建て、アパートなどが次々と建って、町の人口もさらに増えました。西片町会の活動はますます活発になり、西片祭り、西片子ども祭り、新年会、新春もちつき会、西片さくらまつり、歳末夜警、誠ラジオ体操会など年中行事も定着、町内はもとより近隣からも大勢の皆さんが参加して下さっています。昨今は防災・防犯のための活動も町内の重要な仕事です。

江戸時代から西片の地に住んだ阿部家には、西片の歴史を語る多くの貴重な資料が保存されていましたが、16代当主・故阿部正道氏のお考えにより、平成23年から文京ふるさと歴史館への寄贈が開始され、これをもとに平成242月、文京ふるさと歴史館で展覧会「伯爵家のまちづくり―学者町・西片の誕生―」が開催されました。
丸山台地と本郷台地を結ぶ橋として明治13年に初めて架橋された清水橋(から橋)は、平成26年に何回目かの架け替え工事が予定されています。この橋も明治時代以来、西片町の人々とともにあったといえるでしょう。
                        
《参考文献》
阿部正道『西片町の阿部家とその時代』西片町会創立50周年記念誌 2004(西片町会)
西片町会『西片だより』
文京区教育委員会『文京のあゆみ-その歴史と文化-2002
*西片の歴史に関して、故阿部正道氏からはご生前に多くのご教示をいただきました。また、文京ふるさと歴史館専門員の加藤芳典氏からは阿部家資料に基づいたご教示を得ました。

ごみ収集とリサイクル


ごみ収集(可燃・資源・不燃):分別して町をきれいに
    ――当日の朝8時までに出しましょう――

(1)ごみ収集日
 ・可燃ごみ:月曜日・木曜日
 ・資源ごみ:火曜日
 ・不燃ごみ:第一・第三土曜日
 ・新聞・雑誌:毎月第二金曜日(古紙リサイクル集団回収で町会収入になります)

(2)分別の方法
 ・可燃ごみ:生ごみ・発泡スチロール・プラスチック製品・革製品・CD等。
 ・資源ごみ:缶(スプレー缶、カセットボンベ)・ビン・ペットボトル・段ボール+新聞・雑誌・チラシ等。
        ※ スプレー缶類は使い切ったものを、穴を開けずに透明袋に入れます。
※ 新聞・雑誌はなるべく第二金曜日の町会集団回収へ。
 ・不燃ごみ:ガラス・陶磁器・金属・アルミホイル・傘・電池・スプレー缶・カセットボンベ等。
※使い残しの スプレー缶・カセットボンベは透明袋に入れ「危険」と表示します。その他、
割れたガラスや刃物等も紙などでくるみ「危険」と表示する。
 ・筒形電池、インクカートリッジは向丘地域活動センター(本郷通り沿い、六中と地下鉄エレベータ入口の間)に回収箱があります。本郷郵便局二階にもインクカートリッジの回収箱があります。
   
(3)分別方法の詳細は、文京区のホームページから「文京区/ごみと資源の分け方・出し方」をご覧ください(ごみと資源の分け方・出し方PDF)。

(4)ごみ一般についてのお尋ねは文京清掃事務所へ
電話:03-3813-6661 ファックス:03-3816-3981 (〒112-0004 文京区後楽1-7-29)
粗大ごみ(有料)申込みは事前申込電話03-5296-7000へ。


(5)カラスや小動物がごみを散らかして困っている!!という皆さま。
・どなたでもごみネットが簡単な書類に記入するだけで借りられます。管理は自前です。持ち帰り用に大きめの紙袋など持参すると便利です。
 ※ ネットが借りられる所は、
・向丘地域活動センター:向丘1-20-8 電話03-3813-6668
・シビックセンター17階(文京区リサイクル清掃課):直通電話03-5803-1184

西片の年表

第Ⅰ部 「西片町」のあゆみ(武家屋敷時代から旧西片町会の解散まで)
第Ⅱ部 「西片町会」のあゆみ(西片町会の再発足から平成へ)

第Ⅰ部 「西片町」のあゆみ(武家屋敷時代から旧西片町会の解散まで)

江戸時代
1610 慶長15  阿部家2代正次 将軍秀忠より「本郷丸山」10万余坪拝領。
1697 元禄10  5代正邦 丸山下屋敷の内、13,000坪を幕府に上地(現丸山新町)。
1725 享保10  6代正福 丸山下屋敷の内、6,850坪を幕府に上地(現丸山福山町)。
1818 文政01  9代正精 丸山邸内藩校(福山藩文武教習所)創立し、孔子像礼拝。
          同   5月丸山邸内に天文測量場創立(石坂常賢が管理。常賢はこの年『分度星図』を完成、文政8年に幕府「天文方」に採用される)。
1827 文政09   同    6月正精逝去し、8月天文測量場廃止。
              8歳の阿部正弘 江戸城西丸下の老中役宅より丸山邸内に移る。
1833 天保04  10代正寧 15歳の阿部正弘 丸山邸内滝五郎御殿跡に住む(~天保7)。
1843 天保14  11代正弘 阿部正弘老中に(25歳)。
1845 天保16   同   阿部正弘老中首座に(27歳)。
1852 嘉永05   同   全焼の江戸城西丸普請の功績により1万石が加増、藩校誠之館設立費用に充てる(嘉永6年、邸内の藩校を誠之館と改称)。
1854 安政01   同   日米和親条約。江戸丸山誠之館開講。翌年福山誠之館開講。
1855 安政02   同   江戸大地震で辰の口上屋敷倒壊のため、正弘と奥方は丸山中屋敷に仮住まいし、正弘は馬で江戸城に通う。
1857 安政04   同   春に丸山中屋敷にて甲冑調練(大小砲空発。本陣は誠之館)。    
              6月正弘逝去(享年39歳)。
1867 慶応03  13代正方 大政奉還

明治時代
1868 明治01  江戸城開城 慶応から明治へ改元。
1869 明治02  版籍奉還で14代正桓氏、福山藩知事となって赴任。
1871 明治04  廃藩置県。正桓氏は丸山の地を本邸とする。邸内で養蚕事業開始。
1872 明治05  西片町誕生。貸地貸家経営始める。「(西)御殿前通り」(現阿部通り)開通。
1875 明治08  誠之小学校開校。「大通り」(現学校通り)開通。 町内に養蚕室を建築。
1878 明治11  本郷区誕生。
1880 明治13  清水橋(から橋)が架けられ、橋下を通る「清水通り」開通。
1883 明治16  阿部家の貸地に有斐学校建つ。(明治23年返地)。
1884 明治17  「桑の小路通り」開通(養蚕のための桑畑を住宅地にした)。正桓氏伯爵に。
1885 明治18  田口卯吉邸「へノ14」洋館建築(現在国登録文化財)。久徴館新築(加賀藩学生寮。館長桜井錠二。28年廃止)。
1887 明治20  誠之小学校内に幼稚室設置(後に誠之小学校付属幼稚園)。旧「新坂」開通。
1888 明治21  西片町十番地内に「いろは番号」をつけて、各戸に木札配布(300戸)。十番地以外の122は表組とする。
1889 明治22  上田敏(詩人、小説家、翻訳家、東大教授)が田口卯吉宅「へノ14」に寄宿(→明治32年に7番→10番にノ44→明治42年京都へ転居)。
1890 明治23  阿部家本邸新築工事着工。 旧養蚕室を改造して誠之舎竣工(福山藩学生寮)。
1891 明治24  阿部家本邸完成。門前の「大椎の木の広場」を整備し、大椎の木の周囲に柵。
         樋口一葉は上野図書館からの帰途、から橋の下を通る(日記)。
         鈴木大拙が久徴館に下宿。
1892 明治25  樋口一葉の師・半井桃水が河村重固宅「はノ1」に寄宿(河村の妻は桃水の従姉妹)。この家を樋口一葉が数回訪ねる。
1894 明治27  中根重一(福山藩士で夏目漱石の妻鏡子の父)貴族院書記官長に(鏡子は明治29年に熊本で漱石と結婚)。武田五一(後に清水橋や阿部邸洋館を設計)誠之舎に入舎。町内に街灯設置。
1895 明治28  滝廉太郎、西片町九番地に住む(31年に麹町へ転居)。
1897 明治30  誠之小学校付属幼稚園が現在の第一幼稚園の地に新築移転(「ほノ7」)。
1898 明治31  新「石坂」開通。田口文太宅「へノ4」に水道設置。電灯線設置。
         木下杢太郎が西片町に住む(昭和12年「はノ8」へ転居)。
1899 明治32  町内に水道鉄管敷設。
1900 明治33  寺田寅彦、西片町「いノ16」へ(明治35または36まで居住)。
1903 明治36  二葉亭四迷、西片町「ろノ14」に住む(2年後に「にノ34」へ転居)。
         町内にガス管敷設。
1906 明治39  夏目漱石が12月に千駄木より「ろノ7」に転居。
  このころ清水橋(から橋)架け替え工事行われる(武田五一設計)。
1907 明治40  漱石『虞美人草』執筆。9月早稲田に転居。
1908 明治41  4月魯迅が漱石の西片町旧居に友人5人と住み、「伍舎」と称す。10か月後
        「はノ19」に転居し、翌年8月帰国。
         誠之小は「東京市誠之尋常小学校」と改称。
1912 明治45  佐々木信綱「いノ16」に住む(昭和19年熱海へ転居)。

大正時代
1913 大正02 「大椎の木」暴風により衰弱が始まる。
1914 大正03  阿部正桓氏逝去。正直氏15代当主となる。
1915 大正04  史蹟名勝記念物「大椎樹」の石碑を大椎の木のそばに建立(現在も存在)。
1917 大正06  阿部家16代当主正道氏誕生。阿部家は馬車をやめ自動車にかえる。
         正道氏は元西片町会会長。平成23年に亡くなられるまで西片町会名誉会長。
1923  大正12  関東大震災発生。阿部家本邸の一部を被災者に提供。誠之小学校と椎の木広場にも被災者。町の人々は救援活動をし、これを機に旧西片町会創設。初代町会長は阿部家の家令大森ケン之介氏。婦人会会長は正道氏祖母。
昭和時代
1928 昭和03  阿部家は本邸を外庭に新築して移り、「い」の新開地「いノ2162」設立。
         白山神社に阿部家旧応接間および土蔵(現神輿庫)寄贈。
1929 昭和04  旧町会建物を現在の会館の地「いノ24」に移築、模様替え。
1930 昭和05  椎の木広場を児童遊園とし「阿部公園」が誕生(元旦に開園式)。町の人々は「阿部さま公園」と呼ぶ。公園東端に公園詰所あり。
         福山坂(新「新坂」)開通。 
1931 昭和06  葛原しげる「ろ‐5」より「い‐43」の新居に転居。
1937 昭和12  誠之舎「はノ23」に新築(現在の日銀寮地)。木下杢太郎「はノ8」へ転居。
         このころ、木造の清水橋(から橋)はコンクリート造橋に架け替えか?
1940 昭和15  阿部公園に「世継ぎの椎」植樹(皇紀2600年祝賀西片町記念事業)。
1941 昭和16  誠之小は「東京市誠之国民学校」と改称。
1942 昭和17  阿部公園の一部を本郷消防署に貸す。公園詰所は「警防団詰所」になる。
1943 昭和18  町内の家々で防空壕。隣組組織・防空防火体制が強化。町内の出征者多し。
1944 昭和19  東京空襲に備え阿部家は公園の南側を国に寄付。公園に本郷消防署の西片町出張所招致。8月~11月西片町の出陣学徒を町会として見送る壮行会(誠之小講堂)。8月佐々木信綱作詞・朝永研一郎作曲『西片町に住める学徒諸氏の出陣を送る』歌が壮行会で発表される。誠之小の学童疎開開始(~20)。
1945 昭和20  8月ポツダム宣言受諾、9月降伏文書調印
1947 昭和22  旧西片町会解散(5月新憲法施行。連合軍総司令部により全国町会解散)。
         6月西片会館建設委員会が設立される。 新教育制度導入により東京市誠之国民学校は文京区立「誠之小学校」と改称。 終戦直後から町内で青年たちを中心にサッカー部(西片町クラブ)・西片町合唱団・ジャズバンドなどの活動盛ん。
1949 昭和24 「ほノ30」にあった交番廃止(佐々木信綱が桜の木を詠んだ交番)。阿部家は公園をすべて文京区に無償貸与し、公園は区の管理となる。


大正末年~昭和2年頃                                                昭和30年~39年

















第Ⅱ部 「西片町会」のあゆみ(西片町会の再発足から平成へ)

 西片町会初代町会長 山根静人(昭和28年~昭和41年)
1953 昭和28  7月西片町会が再発足(会員696人)、初代会長は山根静人氏。
10月『西片だより』創刊。 12月町内道路復興工事。
1954 昭和29  町内下水本管復興工事。 誠之舎は武蔵野市へ移転し、跡地は日銀寮となる。1月第1回定期総会開催。9月西片町会規約制定。町内ラジオ体操会開始。
1955 昭和30  阿部家の旧外庭を宅地分譲し、「ち」の部誕生。 7月町会会員名簿発行。
         阿部幼稚園が阿部邸内(「いノ1」)に開園(園長は阿部正直氏)。
1956 昭和31  町会回覧板設定。 町会婦人部誕生。
1958 昭和33  公園の「大椎の木」伐採。 町内11か所に防災報知器設置。
         町内設置の街灯は計119基になる(27年時点で50基、29年時点で90基)。
1961 昭和36  公園に消防署家族寮建設。
1962 昭和37  1月『西片だより』100号。
1963 昭和38  町会掲示板14か所に設置。 西片町会設立10周年記念。
1964 昭和39  8月地番変更により「いろは番号」廃止。隣接地区を合併して町内は「西片1丁目・西片2丁目」になる。町名変更が検討されていたが、山根町会長らの努力により西片の名が残る。西片町会の範囲は変更なし。田口卯吉・上田敏両博士居住の地に記念碑建立(2-19-4)。
昭和39年以降


2代町会長 金沢庸治(昭和41年~昭和54年)
1966 昭和41  1月阿部正直氏逝去。正道氏阿部家16代当主に。阿部幼稚園園長後任は阿部伊津子氏に。 7月山根静人初代町会長逝去し、後任は金沢庸治氏に。
1967 昭和42  12月西片茶呑会開始。
1968 昭和43  阿部公園は区立「西片児童遊園」となる。 
1970 昭和45  誠之舎が西片に戻る(1-7-5 旧阿部家内庭にあった蕉雨館跡に建築)。
         5月『西片だより』200号。
1972 昭和47  西片町100周年。 阿部幼稚園閉園(昭和30年)。
1974 昭和49  区立西片幼稚園が阿部幼稚園の跡地に開園(~平成8年閉園)。
1975 昭和50  誠之小学校100周年。
1978 昭和53  9月『西片だより』300号。

3代町会長 阿部正道(昭和54年~平成10年)
1979 昭和54  阿部正道氏が西片町会第3代会長に就任。 9月町内全地域を19地区に分け、各地区1名ずつ理事を選出。
1982 昭和57  金沢庸治前町会長逝去。誠之運動会西片マラソンの前身『持久走』実施。
1987 昭和62  『西片だより』400号。第一幼稚園100周年。
1988 昭和63  西片児童遊園改良工事を実施し、桜の木植樹。公園の由来碑(銅版)を大椎樹の石碑隣に建立。

平 成
1991 平成03  誠ラジオ体操会始まる。公園は都市公園として区立「西片公園」に。
1992 平成04  西片町120周年。初めての西片町会主催防災訓練実施。歳末夜警始まる。
1993 平成05  西片町会(現)40周年。町会青年部創設。
1994 平成06  西片幼稚園20周年。
         9月西片子ども祭り開始。 誠之120周年。
1995 平成07  9月西片白山神社維持会行事として大人神輿渡御復活(以後年中行事に)。
1996 平成08  1月新春もちつき会始まる(西片公園にて。後に西片会館で開催)。
         区立西片幼稚園閉園。1月野鳥を見る会。
1997 平成09  古紙リサイクル集団回収開始。「子育てひろば西片」開設(西片幼稚園跡地)。

4代町会長 山根彬夫(平成10年~18年)
1998 平成10  7月阿部正道氏が町会長退任し、第4代町会長に山根彬夫氏就任。
         3月『西片だより』500号。
2000 平成12  10月西片町会が地縁団体として認可され法人格を取得。
         誠之小学校『写真でつづる125年のあゆみ』出版(誠之学友会)。
2001 平成13  9月西片子ども山車を新調。
2002 平成14  4月木造西片会館を取り壊す。 旧会館の庭にあった紅梅を西片公園へ移植。
2003 平成15  1月鉄筋コンクリート造の新西片会館竣工.2月会館披露・祝賀会。
         10月西片会館一般使用開始。 11月西片町会ホームページ開設。
         12月都立大学荻野国文学研究室「根津・西片言語調査」報告会。
         このころからワンルームマンションの建築増加。
2004 平成16  6月西片町会創立50周年記念式典(誠之小)。『西片町会50周年記念誌』出版(「西片町の阿部家とその時代」阿部正道・「西片町の郷土誌」岡沢昭子)
       7月~11月にかけ50周年記念講演会全3回を実施(講師阿部正道氏)。
         7月地縁法人西片町会会員名簿ならびに会員証プレート配布。
2005 平成17  5月町会主催「福山を訪ねる旅」実施。 文京ふるさと歴史館特別展「建築家 武田五一展」開催。 西片町会ジャンパー(オレンジ色)揃える。
         11月町会主催西片防災訓練実施(文京区防災安全課・本郷消防署協力)。

5代町会長 小倉芳彦(平成18年~)
2006 平成18  誠之小で本格的な避難所運営訓練実施(西片はじめ5町会・教職員・PTA)
4月青年部のお花見会が町会行事になる(西片公園)。
         6月軽井沢へ移築した阿部家蕉雨館見学会。 6月町会主催西片町めぐり。10月阿部家所蔵のフィルムを見る会。 11月山根町会長逝去(享年78歳)。12月小倉芳彦氏第5代町会長に就任。
2007 平成19  4月『西片だより』600号。 6月「夜間の避難所運営訓練」実施(誠之小にて、文京区危機管理室防災課および本郷消防署、西片はじめ5町会)。
         12月第一幼稚園創立120周年記念式典・祝賀会挙行。
2008 平成20  5月「西片白山神社維持会運営委員会」発足。  2月東大の本郷通り沿い塀に「西片門」できる。
         阿部正道氏より「阿部家歴史資料」一括が西片町会へ寄託開始。寄託は以後13回にわたり、町会文化部で資料目録作成。 1月町会小正月の集い(以後2か月に1回ほど昼間の集い実施)。
2009 平成21  3月西片・森川両町会合同防災訓練実施(誠之小)。
2010 平成22  8月東京都・文京区合同総合防災訓練実施。 誠之小135周年。
2011 平成23  311日東日本大震災。西片は震度5強(倒壊家屋無いが古い蔵に被害)。
         西片町会に寄託されていた阿部家歴史資料が、阿部正道氏よりふるさと歴史館へ寄贈開始される。
         1122日 阿部正道氏逝去(西片町会名誉会長。元町会長。享年94歳)。
2012 平成24  2月文京ふるさと歴史館「伯爵家のまちづくり―学者町・西片の誕生―」展。
         10月西片町会地区が「防犯対策を推進する地区」として文京区より指定される。4月防犯カメラ設置説明会。10月西片町内に防犯カメラ設置決定。
2013 平成25  3月末防犯カメラ設置完了。 5月西片町会ホームページを一新し更新再開。
2014 平成26  清水橋(から橋)架け替え工事開始予定。

年表原案 西片町会名誉会長・阿部正道氏  

年表作成 西片町会文化部・大山みどり(20041121)・武田純子(20130131