2013年3月1日金曜日

西片散歩

「西片散歩」は以下を参考にしました。

文京ふるさと歴史館特別展図録『文京・まち再発見-近代建築からのアプローチ-』2008
文京区教育委員会『ぶんきょうの坂道』第5刷 1991
筑摩書房 明治文学全集30『樋口一葉集』1984
西片町会名誉会長・阿部正道氏及び文京ふるさと歴史館専門員・加藤芳典氏によるご教示

*写真掲載の住宅は現在もお住まいとして使用されていますので、どうかそっと外からご覧ください。
  

新坂〔福山坂〕(西片1-12,13と2-6の間)

西片公園の前の道(「公園通り」)をまっすぐ西に行くと、ヴィラロイヤルマンションへ向かって下る坂がある。マンションの前を右に大きく曲がり、その先で左へ急カーヴする坂と、右に緩やかに下りる広い坂に分かれる。左へ急カーヴで曲がる坂道は明治20年(1887)に開通し、新しく開かれた坂なので新坂と命名された。明治から大正にかけ、新坂の上から白山方面を眺めると、植物園近くや氷川下の乳牛牧場で牛が草を食む光景が見られたという。右へ緩やかに下りる広い坂は昭和5年(1930)に道筋を変更して整備し直した(新)新坂で、福山坂ともよばれる。現在はマンション前から白山通りに下りる広い方の坂を新坂〔福山坂〕と呼び、左へ急カーヴで曲がる旧新坂には特に名称がない。
西片からの下り口すなわちヴィラロイヤルの手前をすぐ左に曲がれば、夏目漱石の旧居跡(魯迅旧居跡)があり、漱石はこの家で『虞美人草』を書いた。漱石が1年もたたずに引っ越したのち、同じ家に魯迅が友人ら5人とともに移り住んでおり、門灯には「伍舎」と書いてあったそうだ。この坂を下りきり旧丸山福山町に出て白山通りを南に少し行くと、樋口一葉終焉の地がある。


石坂(西片1-3と1-14の間)

中山道と清水通り(から橋通り。便宜的に言問通りともよばれる。正式には弥生町交番の交差点から東が言問通り)をほぼ南北に結ぶ「阿部通り」の南端は大きく曲がった広い坂道となっている。
西片が福山藩主阿部家の武家屋敷だった時代より、中山道の出入り口から邸内を南北に縦断する主要道路(西御殿前通り)が通っていた。この坂道はその南端部に開かれていた切通しの急坂で、当時は石の階段が設置されていたので石坂と呼ばれ、坂上に物見楼、坂下に阿部家の表御門があった。明治5年(1872)には近隣の人々も通行できるようになったが、明治31年(1898)、坂道のルートをより東方向へまげて、現在のようなS字状の広い坂道とした(新「石坂」)。新しい石坂をひらく時にキツネの穴が二つ出てきたので、油揚げで誘い出して阿部邸の外庭の方へ移ってもらったという話が伝わっている。現在の西片サニーハイツマンションを建てる時に、阿部正道氏がもともとの石坂の下り口を調査したところ、新発田育英舎裏まで続く石畳の坂の一部分が残っていたそうである。
樋口一葉は菊坂に住んでいたころ、急坂だった旧石坂を上って、現在の西片1-11にあった師・半井桃水の寄宿先を訪ねている(桃水は、明治25年3月より従姉の夫である旧福山藩士の河村家に寄宿)。また坂を上り阿部伯爵邸辺りを経て本郷の通りまで散歩した日には、次の日記を残した。
   夕方より邦と共に散歩なす 田町より丸山にのほり阿部邸より本多邸をへて本郷の通りに勧工場二ヶみる

(蓬生日記 明治26426日)

胸突坂〔峰月坂・新道坂〕(西片2-14,15と白山1-24の間)

誠之小学校を出て左方向に行くと、中山道に上る急な坂道にぶつかる。これが胸突坂で、「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、坂路急峻なり、因って此名を得、左右
石垣にて、苔滑か」と『新撰東京名所図会』にある。元禄10年(1697)に福山藩主阿部家の屋敷地の内、この坂より北側を幕府に上地(返却)し、その範囲は幕府医師などの拝領領地となって丸山新町と称した。
 武家屋敷時代には誠之小学校前の道から胸突坂に出るところには門(無常門)があり、門のそばの左角には大榎の木が明治期以降まであったようだが、今はない。

曙坂〔徳永坂〕(西片2-7と2-14の間)

誠之小学校の校庭の奥は崖になっているが、その崖下に細い道が通っている。その道の途中に西片の方へ上る石の階段があって、これが曙坂である。この坂は西片が福山藩主阿部家の屋敷地だった時代からあったようだ。享保10年(1725)、阿部家は曙坂下の道から西側を幕府に上地し、その範囲が明治5年(1872)に丸山福山町と命名された。明治23年(1890)、曙坂を下りた突き当りに住む徳永氏が、中山道に出るときに不便だということで、阿部家の許可を得てこの坂を整備したことから、「徳永坂」と呼ばれていた(文京ふるさと歴史館専門員・加藤芳典氏の教示による)。

曙坂は白山と西片を結ぶ通路として通学や生活に利用されてきたが、昭和22年(1947)に旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修され、それで曙坂という。桜の季節に曙坂下を通る道から崖上の誠之小学校の裏庭を見上げると、何本もの満開の桜が見事だ。

西片公園(西片2-3)

慶長15年(1610)この地に阿部家が屋敷を構えた時から、ここには大きな椎の木があった。追分の一里塚と共に奥州街道を行く旅人の目印となっていたようで、昔は水道橋方面からも見えていたという。明治24年(1891)、阿部伯爵家が本邸を新築したとき、新御殿の表門前に聳える大椎の木を中心とした広場ができ、やがてここは「大椎の木の広場」とよばれるようになった。

椎の木は大正4年に史蹟名勝天然記念物に指定され、「大椎樹」の石碑が建立された(現存)。昭和5年(1930)、阿部家15代当主正直氏はこの広場を児童遊園として整備し、「阿部公園」が誕生、子どもたちは「阿部さま公園」と呼んで大事に遊んでいたという。昭和15年(1940)には、阿部邸内にあった椎の木を「世継ぎの椎」として公園に移植した。
(現存)
第二次大戦前後、公園の土地の一部には本郷消防署の出張所や署員家族寮があった。昭和33年(1958)、椎の木の衰弱が進んだため根元を2m弱残して伐採。昭和43年(1968)に阿部公園は文京区立「西片児童遊園」となった。昭和63年(1988)、区が公園の改良工事を行った際に椎の木は完全に伐採され、その跡に椎の木と公園の由来を記した銅版の記念碑が設置された(現存)。この時に桜の若木が植えられたが、桜の木は見事に育ち、大きく広げた枝に毎年美しい花を咲かせる。平成3年(1991)には文京区立「西片公園」と改称され、都市公園に指定された。現在公園は子どもたちの遊び場であり、緑豊かな憩いの場であると同時に、西片町会の防災拠点として防災倉庫が置かれ、防災訓練も行われている。西片まつり、西片さくらまつりなども公園で行われる町会の年中行事である。

西片会館(西片1-5) 

現在の2階建て鉄筋コンクリート造の西片会館は平成15年(2003)に竣工。西片町会関連の行事や会合に使われるとともに、各種集会やお稽古事など、一般使用のための貸し出しも行っている。災害時には連絡所として西片の防災拠点ともなり、町の人々にとって大切な場所である。
 会館のある場所は明治時代には阿部伯爵家本邸の敷地内で、以前の町会事務所は阿部家邸内にあった木造住宅を、昭和4年(1929)に現在の場所に曳家(ひきや、建物を解体せずにそのまま引き移すこと)したものである。長く町会事務所として使われてきたが、老朽化したので建て替えた。

清水橋(から橋)

明治13年(1880)、西片町と森川町(現本郷6)を結ぶ木橋が架けられた。これが初代の清水橋である。かつては東大農学部方向から清水が流れてきていたが、明治時代の後期には道の端に狭い流れが残るだけになり、から橋(空橋、伽羅橋)ともよばれた。
明治39年(1906)頃には福山出身の建築家武田五一の設計により2代目の木橋に架け替えられた。夜遅く阿部伯爵が清水橋を渡って帰宅されるときは、木橋を渡る馬車の音が静かな西片町に響き渡り、それを合図に阿部家では皆が玄関に出てお迎えしたという。
樋口一葉は日記に、上野の図書館からの帰り道に空橋の下を通った時、書生らしき人物に冷やかされたことを書き残している。
空橋のした過る程若き男の書生なとにやあらん打むれてをはしま(註:橋の欄干)に依かゝりてみおろし居たるか何事にかあらんひそやかにいひて笑ひなとす しらすかほして猶いそきにいそけはひとしく手を打ならしてはうさくにもこちむき給えなといふ。何の心にていふにや 書のかたはしをもよむ人のしわさかとおもへはあやしくも成ぬ
(原文のまま。 わか艸 明治2488日)

明治45年(1912)から昭和19年(1944)まで西片町に住んでいた佐々木信綱は、次のような歌を詠んでいる。
から橋の上ゆ眺むればけぶりの色 木立の色も秋としなれり



清水橋は何回かの改修工事を経て、平成29年(2017)から31年(2019)にかけて全面的な架け替え工事が行われる。(2017年7月記)

第一幼稚園


明治20年(1887)、阿部伯爵家の協力により誠之小学校内に附属幼稚室が設置され、翌年には誠之小学校付属幼稚園と改称、同30年(1897)、現在の第一幼稚園の地に独立した園舎が新築された。戦争末期に一時休園したが、戦後再開されて区立第一幼稚園となった。長く地元にあって西片の子どもたちを育み続け、平成24年には創立125周年を迎えた伝統ある幼稚園である。園庭の藤は明治30年に植えられ、誠之小学校や日比谷公園にも株分けされているという。

誠之小学校(西片2-14)

福山藩阿部家第11代藩主阿部正弘は、藩士の子弟を育成するために嘉永6年(1853)、福山藩中屋敷内の藩校を江戸丸山誠之館と改称し、翌安政元年(1854)に開講した。誠之という名は、「誠ハ天ノ道ナリ、之ヲ誠二スルハ人ノ道ナリ」とある儒学の古典「中庸」からとったという。この誠之館が文京区立誠之小学校の前身で、明治8年(1875)に阿部家14代正桓(まさたけ)伯爵の援助(土地、校舎など)を受けて開校。平成25年(2013)には創立138周年を迎え、この間大勢の多彩な卒業生を輩出している。誠之小学校の史料館には、誠之小と阿部家、西片町とのつながりを伝える貴重な資料が数多く保存されている。 

なお誠之小学校・第一幼稚園前から清水通り(から橋通り)までを結ぶ一直線の道路は「学校通り」と呼ばれているが、江戸時代から阿部家丸山屋敷内の主要道路(大通り)として開かれていた。


誠之小学校は平成29年(2017)から33年(2021)にかけて、仮校舎建設からはじまる全面改築工事が行われる。詳細は、文京区の「誠之小学校改築だより」
http://www.city.bunkyo.lg.jp/kyoiku/kyoiku/gakko/campus/seishi_kaitiku/y.htmlをご覧ください。(2017年7月記)

子育てひろば・西片(西片1-8)

平成9年(1997)開設。西片はもとより、近隣の町々から、入学前ぐらいまでの子どもた  ちが父母、祖父母等に連れられ、時にはお弁当を持って通ってくる。ゆったりしたプレイ  ルームには遊具やおもちゃ、絵本などが豊富に揃い、テーブルもあって、お弁当もみんな  で広げられる。屋外も整備されており、砂場、ジャングルジム、ブランコ、滑り台などが  設置され、夏には水遊びもできる。数名の経験豊かな専門指導員の先生方が見守ってくれ  ていて、子育てに役立つ催しも開かれている。

この地はかつて阿部伯爵家の本邸があった場所で、ここに昭和30年(1955)「阿部幼稚園」が開園した。当時園庭からは富士山が望めた。幼稚園は昭和47年 閉園、49年には文京区立「西片幼稚園」として,新たに開園したが、平成8年休園。翌9年「区立子育てひろば西片」となった。

金澤邸(西片2)


国登録有形文化財。昭和5年(1930)建築で、東京芸術大学正木記念館の設計で知られる金澤庸治氏(元西片町会長)自身の設計による。アトリエ付きの木造2階建て住宅で、アトリエの屋根は急勾配で天窓が付く。細工の細かい和館の門も素晴らしい。

平野邸(西片2)

国登録有形文化財。設計保岡勝也(東京帝国大学工科大学で辰野金吾に学んだ)。和洋折衷の代表的な住宅で、大正10年(1921)に洋館、翌年に和風主屋が建てられた。洋館はハーフティンバー様式(木造骨組みに石や漆喰、煉瓦を挟むスタイル)のタイル仕上げの外壁で、真ん中の玄関によって和館と洋館が見事に融合している。この家は中央公論創始者・初代社長の麻田駒之助の邸だった。洋館部分の1階を中央公論、2階を婦人公論の編集室として使った時期もあり、その後平野家が譲り受けた。

この家の前の通りは昔、「桑の小路通り」と呼ばれていた。明治20年ごろまで西片町で養蚕事業が行われており、この辺りが桑畑の中心だったことに由来している。以前は桑の木が町の中のそこここに残っていた。

橋本邸(西片2)


国登録有形文化財。木造2階建ての洋館で、医学者の住居として昭和8年(1933)に建てられた。外壁はドイツ壁で、2階上部のハーフティンバー風の仕上げ、玄関上部バルコニー手すりの親柱のデザインなどが特徴的である。洋風住宅が流行した当時の西片が偲ばれる建物である。

田口卯吉旧居(西片2)

国登録有形文化財。明治18年(1885)建築の木造平屋建て住宅で、玄関右手に洋館があり、土蔵を挟んで左手に主屋の和館、主屋北側に離れがある。外装が下見板張りに白いペンキ塗りの洋館と、純日本建築の玄関との和と洋との対比が特徴的な、都内有数の貴重な建物である。
このお宅は経済学者・文明評論家・政治家・実業家として著名な田口卯吉博士の旧居である。明治22年、詩人・小説家・翻訳家・東大教授として知られる上田敏が若き頃、第一高等中学校入学と同時にこの家に寄寓している。

日本基督教団西片町教会(西片2-18-18)



現在の建物は昭和10年(1935)建築で、ゴシック様式を基本とした建物。明治22年(1889)、東片町に「日本メソジスト駒込教会」として創立し、明治29年に現在地に移転してきた。信徒席の前に聖餐拝受台がある。

長岡半太郎旧居跡(西片1) 

家は建て替えられているが、煉瓦塀の半分ほどは建造された状態のまま残っている。珍しい形の煉瓦を使った塀で、フランス人建築家に依頼したといわれるが、現所有者の先代からは、福山の化学工場の煉瓦と同じものだという話も伺っている。明治末から大正期の西片町の人々が積極的に斬新なものを取り入れた様子がうかがえる。


長岡半太郎(18651950)は、帝大教授で物理学者。明治36年(1903)、世界の研究者に先んじて原子核の存在を予見したとされ、昭和12年(1937)、ご近所の佐々木信綱と同時に文化勲章を受賞した。









阿部伯爵邸跡(誠之舎・邸内車寄せ跡・邸内マンホール他)(西片1)

阿部伯爵邸跡(誠之舎・邸内車寄せ跡・邸内マンホール他)(西片1
阿部正桓伯爵は明治期に入り、西片町の邸内で養蚕事業を開始した。養蚕事業が下火になった明治23年(1890)、養蚕室を福山藩出身者の学生寮に転用し、誠之舎と名付けた。最初は現在の日銀寮の地にあったが、後に阿
部家本邸の屋敷跡地に新築した。誠之舎の建物の南側には今も阿部邸時代の築山の一部、庭園の石組みや石灯篭、川跡や石橋、桜の大木などの樹木が残っている。なお阿部伯爵邸の大玄関と大広間は民間会社が購入して南軽井沢に移築保存、応接間の一部は白山神社に寄贈された。

誠之舎を出て北方向の四辻(西片1-10)の角に、4本に枝分かれした「マテバ椎の木」がある。明治24年(1891)に新築された阿部伯爵邸の表門は現在の公園西端の向かい辺りにあった。その表門と大玄関との間の車寄せ付近には大きなマテバ椎の木がこんもりと繁っていたが、そのひこばえ(切り株から出た若い枝)が現在のものである。このあたりには立派な井戸があって、かつて白山神社の祭りのときには、西片町会はじめ柳町、八千代町、指ヶ谷町各町会の神輿が邸内に入り、担ぎ手が井戸の水で身を清めた後、表玄関前に神輿を担いで勢揃いしたという。

西片1の某邸敷地内には、阿部伯爵邸内で使われていたマンホールの蓋がそのまま残っている。四角形で中央に「阿」の字、周囲に「本郷西片町」とある。同様のマンホールの蓋は、誠之小学校の史料館や文京ふるさと歴史館にも保存されている。



西片1の石坂沿いの某邸の塀の下半部は、隣の阿部家の石垣とともに、明治24年完成の阿部伯爵邸の石垣がそのまま残ったものである。このお宅のご先祖は旧福山藩士で、つい最近まで阿部家の鷹の羽紋付きの鬼瓦がのった表門が残っていた。



樋口一葉終焉の地(西片1-17-8)
小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉(18721896)の旧居跡。本郷菊坂の井戸のそばの住居を離れた一葉は、当時の下谷区竜泉寺に10か月住んだ後、明治27年(1894)にこの地(当時丸山福山町)に移った。うなぎ屋の離れの6畳2間と4畳半の3間で、西片町阿部邸の崖からの湧水が庭の瓢箪形の池に注いでいた。この家で、隣り合わせの銘酒屋の女性をモデルにした名作『にごりえ』が生まれ、『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』など代表作が数々書かれた。生涯最後の2年半余りをここで過ごした一葉は、明治29年、結核のため24歳の若さで生涯を閉じた。

その他

 その他にも、明治から昭和の初めに建てられた住宅が残っています。又、「西片町十番地いろは番号」時代の表札(十番地いの一号、拾番地への二十四号、本郷区駒込西片町拾番地いの二十五号)や、小石川局時代の電話番号札がそのまま掛けられているお宅があるので、興味のある方は探してみて下さい。



 
 

 
 

 



樋口一葉終焉の地(西片1-17-8)

小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉(18721896)の旧居跡。本郷菊坂の井戸のそばの住居を離れた一葉は、当時の下谷区竜泉寺に10か月住んだ後、明治27年(1894)にこの地(当時丸山福山町)に移った。うなぎ屋の離れの6畳2間と4畳半の3間で、西片町阿部邸の崖からの湧水が庭の瓢箪形の池に注いでいた。この家で、隣り合わせの銘酒屋の女性をモデルにした名作『にごりえ』が生まれ、『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』など代表作が数々書かれた。生涯最後の2年半余りをここで過ごした一葉は、明治29年、結核のため24歳の若さで生涯を閉じた。